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公演の記録 『山彦ものがたり』中国ブロック演劇鑑賞会公演ニュース
有吉ミュージカル「山彦ものがたり」の足跡有吉佐和子は、戦後日本の女流作家のなかでも随所で幅広い活躍をした。 小説、舞踊劇、戯曲などに今日も繰り返されている優れた作品を書いて、社会にアピールした。嫁、姑の争いの「華岡清州の妻」、老人問題の「恍惚の人」人種問題の「非色」等もある。その一方で、日本の古典芸能にも精通していた。 古くから伝わった昔話の「桃太郎」「兎と亀」「馬になった人間」「羽衣」「浦島太郎」「猿蟹合戦」などを練り合わせて、このミュージカルをつくり上げた。 「山彦ものがたり」は日本のオリジナル・ミュージカルを創りたいという有吉が、かってニューヨークに留学した時からの夢だったのだろう。今にして思えば先見の明であった。 1975年(昭和50年)1月に初演されたときには、忘れかけていた日本の古いお話が懐かしいメロディとともに息づいて、生き生きと蘇ったことにびっくりした記憶が残っている。それ以来33年経っても未だに新鮮なミュージカルとして繰り返し上演されている。日本国内では、北は北海道から南は九州まで。アジア圏では中国、韓国、シンガポール、ベトナムなど。また、遠くはアメリカへ2度(ニューヨーク2回と西海岸)公演して、そのつどに日本のお伽噺の内包する魅力をしっかりと伝えてきている。 とは言え、なぜこれほど長い生命力を持っているのか、それは、有吉佐和子の脚本の妙は言うまでもなく、その上演の度ごとの演出、音楽、振付に新しい手が加わって練り上げてきているせいであろうと思う。そして新しい出演者に交替しながら、より現代にマッチしたミュージカルを目指していることは頼もしく、嬉しいことだ。 これからも「山彦ものがたり」の上演が国内はもちろん世界に向けて広まることで、日本文化の妙、優しさ、ウイットなどが一層の理解を生むことになればと願っている。 藤田 洋(演劇評論家)
公演の記録 鑑賞会の皆様へこの度は「母さん」を例会に迎えていただき心より感謝を申し上げます。05年3月東京公演、同年12月沖縄公演そして06年1月東京公演、を経て、本年12月に首都圏の皆様とお目にかかれる事、大変光栄に存じます。佐藤家三代(父、ハチロー、息子)に亘る壮絶な生のドラマの中に、息子(ハチロー)と母(ハル)の絆を描いています。昨今の新聞には親が子を、子が親を殺めるという余りにも痛ましい人間喪失、家庭崩壊の記事が溢れています。音楽劇「母さん」のドラマの中には親の勝手(都合)から子の心が押しつぶされてゆく様が描かれています。又、サトウハチローの詩と共に優しい歌声をお聞きいただければ幸いです。
公演の記録 木村隆(演劇評論家)スポーツニッポン記事「舞台評」より毎日、昼も夜も「面白い芝居」を求めて東奔西走していてもなかなか手ごたえある作品には出合えない。たまに、本当にたまに「これは!」と思うものにぶつかったときだけが生きがいと言い切れる。その数少ない作品が「母さん」だ。東京・三百人劇場でわずか4日間だけの上演。公演期間を過ぎたものは原則的にここでは取り上げないのだが、年末に沖縄と都内での再演を計画中と聞き「記録」として書きとどめておく。この作品はきっと今後、細くとも息の長いヒット作になるだろう。
詩人サトウハチローの生涯がその詩とともに音楽劇としてつづられている。1973年、70歳で亡くなるまで童謡、抒情(じょじょう)歌、流行歌、CMソングなど幅広い歌を残した。敗戦でうちひしがれた国民の激励歌となって戦後を象徴する歌となった「りんごの歌」や「長崎の鐘」そして誰しもの郷愁を誘う「ちいさい秋みつけた」。劇中では既成の歌に加え新垣雄がハチローの詩に抒情的な曲をつけている。 その美しい詩とは裏腹にハチローが実は放蕩無頼であったことは妹・佐藤愛子の名著「血脈」でも知られるが、ここでも作・堀江安夫は優しさと冷淡さ、愛憎といった人間の抱える矛盾をそのままぶつけて温かく批判もしている。
公演の記録 2005年12月2日「沖縄タイムス(夕刊)」![]()
公演の記録 『山彦ものがたり』東京公演久しぶりの東京公演の上演でした。過去に何回もご観劇された方々が多数お見えになり、貴重なご意見をお伺いする事が出来ました。厚くお礼を申し上げます。
公演の記録 『山彦ものがたり』韓国公演山彦の会の海外公演は6回目になります。厳しい状況ではありましたが、従来通り他民族への尊重からの交琉に確信を持つ事が出来ました。今後も創造的な高まりと広がりに努めて参りたいと思います。
公演の記録 はるさんのこと(作)堀江安夫手繰り寄せる何かがあったのでしょうか。
サトウハチローのお母さん、はるさんのことです。山彦の会の片山さんから委託され、調べを進めるうちに、もしかしたらはるさんが私を指名したのではないか、という不思議な感慨に、私は何度か捕らわれていたのです。 それは唯単に生まれが同郷(仙台)だから、というのではありません。はるさんに西洋菓子の作り方を教えたシュネーダー夫妻の夫君は、後に東北学院というミッションスクールの院長を務めた方で、キリスト教の布教に生涯を捧げた人でした。中・高とそこで学んだ私は、何度もその名を耳にしていたのです。はるさんがよく子守唄としてハチローに唄ってやった「アニー・ローリー」は、シュネーダー院長の愛唱歌でもありました。 また、はるさんのお母さんの登和子さんが、私が生まれた七郷という、仙台でも在の方の出だということも何か因縁めいていました。しかも、紅緑とはるさんの家に寄宿していて、火傷を負ったハチローを東大病院に運んだのは真山青果で、彼の出世作となった「南小泉村」は、七郷の隣村のことを描いた小説で……ということになれば、私がそこに地縁・宿縁を感じても、少しも不思議ではないように思われるのです。 ともかく、お袋不孝ではハチローに引けを取らない私でした。そんな輩が書いた芝居を、同郷のはるさんはどんな思いで見てくれるのでしょう。赦しを請うような思いで、初日の幕開きを待っている私です。 演出にあたって(演出)横山由和 堀江さんの脚本を読んで驚いた。どちらかといえば、私の中で封印していたというか、黙殺していたテーマ。母への想い。私の母は、病気のせいで太っていた。体がだるいの
か、よく寝ていた。といっても、タバコをやめる気配はない。私のことを「ボク!」と呼び友人に聞かれると、いつも冷やかされた。「もうすぐ私は死ぬんだから…」と言っ
て驚かし、母に対して素直に愛せなかった。「ほっといて」が私の口癖。そんな母も公言どおり、私が若い頃に死んでしまった。母の人生は戦争があり、私を産んで育てた。
と言っても私は双子の片割れで、ぜんそく、赤痢、ジフテリア、交通事故、大ヤケド。母の気を休ませることはなかった。そして反抗期。高校を卒業して出ていってしまった
。私は「ありがとう」の一言も母に言った事が無かった事に気がついた。後ろめたさと後悔、男性なら誰もが胸の奥に仕舞い込んでいる「悲しくてやりきれない」という想い
。そんな心に光を当ててくれたのが、この本である。「サトウハチロー」を描いてはいるが、男の根っこの部分が浮き彫りになってくる。私はこの本を読んで、少しだけ素直
な気持ちを取り戻せた。この仕事を与えてくれた、プロデューサーの片山さんに感謝。男たちよ、もっと素直になろう!
公演の記録 ミュージカル『山彦ものがたり』が2度目のニューヨーク公演 石井啓夫(月刊ミュージカル2005年3月号より) 昨年12月20日から22日まで、ニューヨークで行われたミュージカル『山彦ものがたり』を見に行った。作者の故有吉佐和子の作、演出で1975年に初演され、以降、現在まで600回を越えて上演されているオリジナル・ミュージカル。可愛くて洒落たミュージカルを書きたいと願った有吉が、日本人なら誰でも知っている桃太郎や浦島太郎、カチカチ山などのお伽噺を題材に最初で最後のミュージカル台本として書き下ろした作品で、昨年が初演から足掛け30年目。これまで、日本各地での公演を始め、海外公演も'95年のシンガポールを皮切りに'00年北京他中国、'02年ニューヨーク、'03年ベトナムと行って、'04年は2度目のニューヨーク。今回は、12月8日からロサンゼルスで3公演、サンフランシスコで2公演を経てニューヨーク3公演のアメリカ3都市公演という行程だった。
ロス公演では、出演者たちのマイム的な動きが喝采を浴びたと地元日系紙サンに絶賛され、サンフランシスコ公演では、70%を占めたアメリカ人たちから、「ヤンヤの反応があって、日米の観客姿勢の違いを感じると共に、テーマやメッセージの共通性が通じたのでは」と、大鳥。わたしが観劇したニューヨーク公演は、寒波の影響で客席は満員にはならなかったが、『Tales of The Echo』と題され、全編英語で上演された舞台は始終、クスクス笑いが絶えず、亀になり馬になりの俳優たちに熱い拍手が送られていた。
公演の記録 2003年12月4日「日本経済新聞」より抜粋作家の有吉佐和子先生が書いた唯一のミュージカルが「山彦ものがたり」だ。われわれ「山彦の会」は28年にわたり、この作品を上演し続けている。先月はハノイ、フエ、ホーチミンとベトナム三都市で公演した。
有吉先生はベトナム戦争を人間の魂救済の立場から描いた「ケイトンズビル事件の9人」を自ら翻訳するなどベトナムに強い関心を抱いていた。ベトナムでもこの戦争を知らない世代が人口の半分になるという今、先生がベトナムの変わりようをどう見られるかとの思いが胸をよぎった。 「山彦ものがたり」は76年8月公演の後、一時中断した。84年、芸術座の楽屋におられた先生から「どうするのよ。何もたもたしているの」とおしかりの電話を受けた。「もうすぐ立ち上げます」と返事をしたが、それが先生との最後の会話になった。53歳で急逝されたのだ。 88年に活動を再開。98年からは現代的なテンポに合わせるため、テーマ曲だけは残し新たに作曲を山口I也さん、振り付けを出雲蓉さんに依頼した。その結果、セリフ部分が歌に変わり、曲数は倍になった。 初演以来、中国、シンガポールなど海外公演を含め上演回数は600回以上になる。国内では地方公演を前提としているため、大荷物になる舞台装置は何もない。しかし、初演から生演奏付きで手抜きはしていない。 昨年11月のニューヨーク公演では英語版「Tales of the Echo」をハンターカレッジ内プレイハウスで上演した。
公演の記録 『叱られ坊主』チラシより抜粋2003年は、サトウハチローの生誕100年にあたり、没後30年にもなります。
子どもの心を失わない素朴で優しい詩には、今でも感心が高く、多くのファンを持っています。 昭和27年の初夏、サトウハチローを囲む童謡の勉強会「木曜会」をメイン舞台として、少年時代のハチローが複雑な家庭環境の中で孤独になり、荒れすさみ、やがて、人との出会い、言葉との出合いを通して、母を慕い、理想の母の中に無い物ねだりの詩を書くサトウハチローの青春時代をえがくものです。
公演の記録 ニューヨークに谺した「ヤッホー」北川登園(テアトロ2002年3月号より抜粋) ミュージカル「山彦ものがたり」(作・演出=有吉佐和子、演出=岡本一彦、音楽=内藤法美、山口I也、振付=出雲蓉)が、昨年十一月、ニューヨークでの初の英語バージョンの公演を行った。十四日の初日と十七日の楽日をのぞいたが、全五ステージはなかなかの好評で、"山彦"はビルの谷間に大きく谺した。「子供たちのため、全米の学校公演をしないか」などと薦める声も相次いだ。
この公演の二日目に駆けつけた有吉の長女で作家の有吉玉青は、「本当に嬉しい。母が望んでいた公演かもしれません。観客の皆さんに喜ばれたのが何よりです。母は小説だけでなく、戯曲を書いていたんだなぁ、と実感しました。最後の場面で客席の子供からグッバイと言う声がかかりました。舞台の世界に入っていたんですね」と、公演に立ち会えた喜びを語った。
公演の記録 ◆有吉佐和子と『山彦ものがたり』大笹吉雄(パンフレットより)ミュージカル『山彦ものがたり』は一九七五年の初演以来、これまで再演を繰り返してきている。はじめから片山忠彦氏が制作にたずさわってきている作品で、紆余曲折を経て現在も、なお片山氏が「山彦の会」を主宰しているのは、ある意味で原点を守りつづけているということもできる。
数々の小説で知られる有吉佐和子は、それほど多くはないものの戯曲にも手を染めた。中でも代表作とされるのは、文学座での杉村春子による初演以来、歌舞伎の坂東玉三郎や新派の二代目水谷八重子などによっても手掛けられている『ふるあめりかに袖はぬらさじ』と、小説をみずから戯曲化した『華岡青洲の妻』である。この二本はこれからも上演を重ねていくに違いない。 ミュージカルという性格上、戯曲の完成度という点ではこの二本に及ばないが、広く親しまれ、上演されつづけていくだろうということでは、『山彦ものがたり』もそれらに決して劣らない。 ご覧になればすぐおわかりのように、ここには多くの日本の昔ばなしが取り入れられている。だからもしかするとこの作品は、児童向け書かれたと思われているところがあるかも知れない。が、断言していいと思うのだが、『山彦ものがたり』はそれだけのものではないし、あるはずがない。というのも、『山彦ものがたり』の初演の前年から有吉佐和子は一方で、問題作の『複合汚染』を新聞連載しはじめているからである。 周知のようにこの小説は、公害問題を真正面から描いたもので、社会の目をそれに向けさせる上で大きな影響をおよぼしたが、私見によれば、『山彦ものがたり』は、これと表裏一体をなしている。公害への怒りがあればこその自然賛歌、人間賛歌なのである。人に呼びかけただちに答える山彦は、そのシンボルである。もし山彦がいなくなったら……と想像すれば、作者がここで何を意図したかは、おのずと理解されるに相違ない。
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公演の記録 あらすじにかえて(チラシより抜粋)
『山彦ものがたり』の初演は、俳優もスタッフも有吉佐和子さんの呼びかけで集められました。この度の舞台は、有吉佐和子さんはすでになく、その「有吉ミュージカル」の評判が、俳優を呼びスタッフを集めたといってもよいでしょう。その呼びかけに早速かけつけた内藤法美さんが突然なくなられて、有吉、内藤両先生の思い出を偲ぶ公演になってしまいました。かつて有吉さんがパリに居る内藤さんに電話して、「あなた!『山彦ものがたり』が今大当たりしているのに、どうして今頃パリでウロウロしているの?早く帰っていらっしゃい!」と叱られたということですが、再び、その興奮を、お二人喪きあとの舞台で再現したいものです。
新しい衝撃が予想できる『山彦ものがたり』藤田洋 (企画パンフレットより抜粋) 有吉佐和子さんが書き卸したミュージカル「山彦ものがたり」は、初演当時(昭和五十年一月)、簡潔、清楚で、しかも人間の心の奥底に斬りこむ、すぐれた作品として、立て続けに再演・三演を重ねた。
たった十人の出演者は、いずれも有吉さんとプロデューサーの片山忠彦さんが、方々の舞台を見歩いて、才能豊かな俳優を集めてきただけあって、強烈な個性をもつ役者ばかり。選び抜かれたメンバーが、合宿をして丹念につくりあげた舞台だから、たいへん感動的に仕上った。(中略) 有吉さんは、急逝された。しかし、「山彦ものがたり」という、得難いミュージカルの名作はのこっている。松山さんと片山さんが、有吉さんの意志をついで、もういちどこの作品を世に送り出してみようと考えたのは、けだし当然といえよう。 その話を聞いたとき、前の再演ではなく、一九八八年の「山彦ものがたり」をこしらえてほしいと頼んだ。この作品に、新しい生命を吹き込むことが、再び新鮮で、衝撃的な舞台となる。有吉さんがいちばん強く注文するにちがいない方向に、沿うものだと信じるからである。
公演の記録 まぶしい光景(演出家)広渡常敏(チラシより抜粋)この作品がぼくを撃つのは、事実の重みである。それはこれまで自然主義の作品について言われてきた"事実"という意味とは違うものだ。近代化という狂暴な破壊力がエコロジー(生態系)を破壊し、科学と技術を信仰してきたリアリズムの方法そのものを破壊してしまったという、事実の重みがぼくを撃つのである。
現代密着の作品が近代化という狂暴な歴史の渦の中にあわだちながら、異様なケンタウロス出現の光彩をぼくにつきつけてくる。 舞台に登場するのは、破壊されたものたちのエネルギーを荷電したケンタウロスたちである。 ぼくらはケンタウロスたちの非現実のコミュニティを出現させることができるだろうか。
公演の記録 ![]() ※山彦の会、宮城まり子、有吉佐和子からパンフレットに同封された本公演についてのご案内。 宮城まり子の言葉 “大人は、昔、子供だったのに、子供だったことを、忘れている大人がいる”サン=テグジュベリの星の王子様の言葉が、好きです。
「山彦ものがたり」に、出演させて戴いていて、毎日、子供達が、私達の動きの通り、お顔や、口を動かしていて、それがいつのまにか、大人にうつって、一緒に、拍手したり、笑ったり、唄ったりして下さっていられるのを、感動しながら舞台に立っていました。子供達は、ぴらぴらしたものも、キラキラしたものも、ぜんぶいらない素のものを、もっとも、美しく受けとって下さいました。 このミュージカルが、子供達と大人にこんなによろこんでいただけて、再演が、出来ますこと、この上ない幸と、又、大きなおそれを、感じます。だって、子供達って、うそは、ちゃんとわかっちゃうんですもの。 どうぞ、夏休みの一日、お楽しみいただけたら、うれしく思います。お待ち申しあげます。 四月七日 宮城まり子 有吉佐和子の言葉 数年前から知識人と子供の両方に焦点を当てたミュージカルを作りたいと考えていました。それがこの正月「山彦ものがたり」の自主公演として実を結びました。大道具もコスチュームも使わないで、俳優は肉体と演技力だけ、美しい音楽の流れに乗って唄い、踊る。まだ誰もやっていない試みなので、稽古中は五里霧中でしたが、幕をあけてみたら観客の拍手に迎えられ、大きな成功を納めていました。
小さなホールで、短い期間でしたが、特に教育者とお子さんたちに喜んで頂けましたのと、今度同封のご案内のように日生劇場で再演されるはこびになりましたので、宮城まり子さんと二人で「学校の先生たちにお手紙出してみましょうか」「これまでそんなことしたことないけど、やってみましょう」「あんなに子供たちが喜んでくれたのだから、もっと大勢のお子さんたちに見てもらいたいわね」という話になり、こういう手紙を差上げることにしました。 楽しい夏休みの一日を、大人も子供も一緒になって笑って暑気ばらいをして頂けたら幸せです。お待ちしております。 四月七日 有吉佐和子
公演の記録 作者の言葉 有吉佐和子(『山彦ものがたり』チラシより抜粋)
随分長い間、可愛いくて洒落たミュージカルを書きたいと念願していました。背景は使わない。大道具も小道具もない舞台で、上手な俳優だけ縦横に活躍するミュージカルを思い描き始めて、もう六年くらいになるでしょうか。
日本のお伽噺、日本人なら誰でも知っている桃太郎や浦島太郎、カチカチ山から花咲爺まで、できれば全部盛込んで、スピーディに話を運び、美しい音楽と、機智ある振付けによってミュージカルを仕立て上げたい。この願いを知って、飛びついてきたのはまず俳優さんたちでした。どの興業会社も劇団も、大道具を使わないと聞いただけで首を傾げてしまったのです。俳優は十人しか必要ないと私が言っても、それだけのことができる十人は、うちでは揃わないと答えてきた劇団がありました。 そこで山彦が集って、こうした自主公演の運びになりました。実力のある人ばかりが、やる気で力を合わせたのです。私も全力を尽くしました。
公演の記録 あらすじ(『ケイトンズヴィル事件の九人』チラシより抜粋)
ケイトンズヴィル事件というのは、アメリカの首都ワシントンに近いメリ−ランド州のケイトンズヴィルという町で1968年5月17日に実際に起こった事件である。首謀者はフィリップ・ベリガンというカトリックの司祭であり、兄のダニエル・ベリガン神父も含めて九人のカトリック教徒が反戦運動の一環としてケイトンズヴィルにある兵役事務所を襲い、徴兵書類を焼き捨て、その場で逮捕された。マスコミには事前に通知し、テレビカメラや新聞記者の目前で彼らは書類を焼き、警官に連行された。この戯曲は、詩人としてすでに評価されていたダニエル・ベリガンが、判決後、地下潜行中に書き上げたものである。彼が逮捕されたあと、この戯曲はカルフォルニア州にある教会の中で有志によって上演されていたのだが、ニューヨークのプロダクションの目に止り(ザ・サウンド・オブ・ミュージックなどを興行した有名な)1971年にブロードウェイで職業俳優たちの手によって上演され大評判を呼んだ。
有吉佐和子の言葉(『ケイトンズヴィル事件の九人』チラシより) ![]()
この芝居は、世界中の人間のために書かれたものです。この公演には、演劇界から予想外の反響があり、有名無名、老若男女の俳優が、劇団を問わず、フリーといわず続々と参加しています。こんな結果を招いたのは、第一に作者のダニエル・ベリガン師の素晴らしさに、みんなが人間的共感を抱いたからだと信じます。私は翻訳者として演出家として、この芝居を見て楽しいものにすることを約束します。
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